「うきよ」と読むのが一般的だけど、「ふせい」とも読むんだそうだ。『新明解』は双方の読み方で立項している。
「行き過ぎ」に思うのは「ふせい」のほうかな。
上の写真にあるように「善き意志が必ず正統に報いられるとは限らず、むしろ悪の論理が罷り通るかに見える、この世」とある。
この語釈を見ると「うきよ」と読まずに「ふせい」と読めば、特別な意味が加わるのかなと思うんじゃないだろうか。
しかし、『新明解』の「うきよ」を見たり、あるいは他の辞書で「ふせい」を引いてみると、結局「ふせい」は「うきよ」のことであるらしい。すなわち『新明解』に記された「善き意志が」云々は「しゃれ」である様子。
『新明解』編纂者は「浮世というのは正義がねじ曲げられる世の中であるらしいですよ」と「批判的言及」をしているんだろう。
しかしこれはあまりに無駄に流れてしまっている感じ。語数を加えるなら「うきよ」と読むケースとの違いをたんたんと説明してほしかった。
『新明解』にはしばしばこうした「すべりすぎ」な「がんばり」が見える。