放送大学の「学校と法」の第一回講義「学校教育紛争の現在」にて、以下のような講義があった。
学校教育に法は馴染まないという言説は過去のものとなり、話せばきっとわかるという牧歌的な学校運営は行き詰まっている。
この説明になんの異論もない。ただ、講義で「言説」を「げんぜつ」と読んでいたのが気になった(講義の後半でもやはり「げんぜつ」と読んでいた)。
「言説」は、もちろん一般的には「げんせつ」と読む。「げんぜつ」という読みはあるのかどうか。手持ちの辞書を何冊かみてみたけれど「げんぜつ」という読みをあてているものは見つけられなかった。
もしかすると中国語では「げんぜつ」と読むのかもしれない。あるいは方言で「げんぜつ」という言い方があるのかもしれない。
で、これだけだと揚げ足取りになる(笑)。ちょっと気になったのは、「言説」という言葉の語釈がなかなかわかりにくいことだ。
日本国語大辞典には次のようにある。
意見を言ったり物事を説明したりすること。また、そのことば。ごんせつ。
大辞泉でも似た感じだ。
意見を言ったり物事を説明したりすること。また、その言葉。ごんせつ。
この説明だけみて用例がわかるだろうか。上の辞書の説明だけみれば「遅刻の理由を言説する」なんて言い方もありなように思える。
ぼくは人生で100回くらい「言説」という言葉を使ったと思う。でも辞書の語釈を先に見ていると、きっと怖くて使えなかったんじゃないかと思うな。
おそらくぼくは小説などから用例を見て使うようになったんだろう。辞書の定義よりはよっぽどわかりやすい。青空文庫を検索すれば、ヒストリカリー・コレクトな用法を見ることもできるしね。
例をいくつか。まずは太宰治(ぼくのIMは「だざいおさむ」を「太宰修」と変換した。悲しい^^)の『芸術ぎらい』。
小説界に於いても私の言説にまじめに耳を傾けてくれるような物好きな人がひとりもいない現状なのだから…
有島武郎(やはりぼくのIM on Ubuntuは正しく変換しない^^)の『宣言一つ』なんかもわかりやすい(ところで有島って大杉栄にカンパしてたりしたんだな…)。
たとえばクロポトキンのような立ち優れた人の言説を考えてみてもそうだ。
これらの例を見れば「言説」の用法もだいたいわかる。どうやら「言説する」なんて使い方はしないみたいだなあということも理解できる。
辞書ももうちょっとわかりやすい語釈を作れなかったのかな。そう思いつつ三省堂国語辞典を見てみた。
ことばにあらわしてのべる説。
むむ。なんか物足りない感じがしないでもないけど、けっこうわかりやすいね。なるほど、小型辞典の方がわかりやすいのかと、岩波国語辞典もみてみた。
言うこと。その説。ことば。
あはは。こりゃわからねーや(笑)。
なんでだろうな。よくわからないけれど「言説」って言葉、辞書的には定義しにくい言葉みたいだね。
ところで「げんぜつ」。「言説」とは違う「げんぜつ」という言葉もあるみたいだね。日本国語大辞典には次のようにある。
ものを言うこと。ものいい。ことば。弁舌。ごんぜつ。
相変わらず用法がわかんないけどね(笑)。やはり青空文庫を検索すれば、芥川龍之介の『糸女覚え書』などがヒットする。
尤も片頬腫れ上られ居り候へば、言舌も甚ださだかならず
なんだろう、「弁舌」とかと同じような意味なんだろうか。よくわかんないけど。
ま、とにもかくにも。放送大学の講義のおかげで「言説」の意味を考え、いろいろな小説を目にすることができたよ。アイム・ハッピーだ(^^)。