『巨大数』という本を読んでいた。
その中に、実は「天文学的数字」ってのは大きくないのではないかという記述があった。なるほど、そうかもしれない。
かつては、巨大な数を示唆することばとして「天文学的」などと形容していましたが、現在では、実際の天文学で使われる数をはるかに超える巨大数が普通に使われています。
— maeda hiroaki (@torisan3500) 2016年10月31日
via 『巨大数』(鈴木真司)
すくなくともぼくは「天文学的」といえば無条件に大きいものだと教わったし感じてきた。しかし、なるほど「ビッグデータ」が言われる時代にあっては、「天文学的」は「日常的」なのかもしれない。
そう思って国語辞典をみていた。意外に多くの辞書が「天文学的」ないし「天文学的数字」を立項している。
たとえば『広辞苑』はこんな感じ。
注目してしまうのは「実生活からかけ離れた」の部分だ。『日本国語大辞典』でも「現実ばなれのした」とある。
そんな国語辞典を読みながらふと考えこむ。
『巨大数』では「天文学的数字」は「日常」になったとする。それについては確かに納得させられる。しかし国語辞典はどうやら「具体的数字」ではなく、「現実離れ」したものを「天文学的数字」と呼びたいようなのだ。
すなわち、旧来の「天文学的数字」が日常となれば、それはもはや「天文学的数字」ではなく、そこからたとえば10の8乗くらい桁数が増えた数字が「天文学的数字」となるわけだ。
この定義はなかなか柔軟性をもっているな。1998年くらいに使っていたぼくのMacintosh IIfxは、20MBのメモリを積んでいた。それが「大容量」を意味した。当時は「ギガバイト」ってのは「天文学的数字」だった。ハードディスクですらメガバイトが単位で、「テラ」というのは単純に「スーパー」を意味していた。
そんな時代はとっくに「古いもの」になった。しかし「天文学的数字」を「実生活からかけ離れた数字」と定義しておけば、それは陳腐化しないわけだ。
科学の進化がモノサシではかれない時代、多くの辞書にみられる「天文学的数字」の定義は確かに面白い。